身内と私の話。

若年性認知症になった身内との記憶を綴るブログです。

トシオ小父さんの現在と楽器の話。

トシオ小父さんの認知症が発覚してちょうど1年である。

(2021年の御用納めの日に、行政から連絡があって発覚した)

 

2022年初頭に悪化していた持病の治療(と認知症のコントロール)で入院して以来、入所施設を探しまくっていたのだが、親族の居住地に近いサ高住(サービス付き高齢者住宅)に入居できることになった。

 

やれやれである。

 

病院では監禁状態だったため、かえって認知症の症状が進んでしまったのである。

そりゃ60余年を独り者として気ままに暮らしてきた人間が、コロナ禍で面会も外出もできない病院の大部屋に1年近く放り込まれたら、おかしくなって当然である。

親族一同、早く出してやりたかったのだが、持病のコントロールがきかないと、受け入れ可能な介護施設が限られる…という事情もあり、持病の好転を待っての入所となった。

 

ここから彼がどう生きていくかはわからない。

サ高住とは言え介護施設、コロナ禍では面会がひどく制限されている。

少しでも落ち着いてくれることを願うばかりである。

 

さて、入所にあたって、彼が最も執着するもののひとつ、趣味の楽器を1台持たせることにした(なお、諸事情で私の母が、10数台にのぼる彼の楽器を預かっている)。

 

こちらは楽器に関して知識がなく、彼と関係のある音楽教室も遠方…ということで、最も装飾などが少なくオーソドックスな型で、「安いかな?」と母が判断した楽器を、近場の全く付き合いがなかった楽器店に出張メンテナンスしてもらったところ、なんと、18世紀の逸品だった(冷汗)。

 

メンテナンスにきてくれた楽器店の店員は震えていたそうだ。

 

店員「こ、この楽器どうなさるんですか」

母「いや、若年性認知症になった身内が施設に入るので持たせます」

店員「そんな!…あ、あの、もし手放される場合はぜひとも当店に…」

母「あ、関係のある音楽関係者が多いので、そちらでツテをあたることになると思います」

店員「そうですか…でもお気が変わったらぜひ(以下略)」

 

実を言うと、私は、彼からイベントの予備として楽器を借りたことがある。

 

私が貸してほしいと頼むと、彼はあっさりと「俺の持ってるの、100万円以下で購入したやつないぞ?それでもいいか?」と言ってのけた。

私もふるったもので、「うん、どうせ弾くの私じゃないし(←オイ)、あくまで『予備』で使わないと思うから」と借りた。

 

恐らくアレが18世紀の逸品だったんだろうなぁ…。

 

今の彼は「お金」と「楽器」に執着してしまっているので、当分処分は難しいのだが、さてはて、総額いくら使ったのだろう…。

 

全く、知らぬが仏である。

 

逸品で、少しでも心が慰められることを祈るばかりである。

トシオ小父さんと御茶ノ水。

さまざまな理由で、上京してから私とトシオ小父さんが会う場所は御茶ノ水が多かった。

 

先ごろ、所用で、コロナ禍以来初めて、御茶ノ水橋方向へ行った。

駅前を抜けていくと、「あ、ここ、よく飲みに来てたけど、閉めたんだ」「ここは小父さんがしょっちゅう立ち寄ってやたら飲んでた、まだある」などなど、そこここに「トシオ小父さんと行った場所」があり、思い出が立ち返ってくる。

 

少々つらかった。

 

御茶ノ水は大学もあり、予備校もあり、若い浪人生・学生が行き交う学生街でありつつ、楽器店も多く立ち並んでいるので、「学生のまま大人になった」ような雰囲気の人が大勢いる。

 

トシオ小父さんはまさにそういう雰囲気を漂わせた「大人になりきれない大人」だった。

 

何がどう間違ったら、あの人が若年性認知症になるのだろう。

 

今もわからない。

 

御茶ノ水からは、しばらく足が遠のきそうである。

トシオ小父さんがとばっちりを受けた話。

トシオ小父さんが器楽を趣味にしていたことは書いたが、音楽教室というのはさまざまなコースがあるもので、イタリア歌曲に魅せられた彼は声楽を習い始めた。

 

なんだか面白そうなので、私も同じ先生に声楽を習うことにした。

その頃私はミュージカルファンで、週1でシアタークリエに通う(もちろん同じ演目)とか、そういうアホな行動をしていたので、私は主にミュージカル曲を習っていた。

 

そんな中、私は芸術系のことを職業にしたくなり、安定していた会社員業を辞めることにした。

それを伝えた母が激怒(泣いて怒った)したのはまた別の話なのだが、ここで思わぬことが起きた。

 

母がトシオ小父さんにクレームを入れたのだ。

 

「どうせアンタがあっちこっち連れ回してる間に変なこと吹き込んだんでしょう!」

 

…と、母に電話で怒鳴られたトシオ小父さんは、「いやー、なんのことかまっっったくわからなくて『……は?なんの話?』と返事しちゃったよー。ところでお前、会社辞めるの?ふーん、まあ、頑張って」という電話を私に寄越した。

 

寛大な人である。

 

そして言葉通り、「まあ、頑張って」以上の応援はしてくれなかった。

 

厳しい。

 

が、筋は通っている。

 

そのときも謝ったが、今さらながら、とんだとばっちりで、トシオ小父さんには申し訳なかったと思う。

 

ごめんよ、小父さん。

トシオ小父さんとブランドもの。

ひとつ思い出すともうひとつ思い出す。

思い出したときに書いておこう。

 

トシオ小父さんは、ある楽器が趣味で、セミプロ級だった。

一応、そういう音楽教室チェーンで、講師の資格をもっていたほどだ。

 

教室では、オケを組んで、海外に演奏旅行に行くことがあった。

 

トシオ小父さんが演奏旅行でイタリアに行くことになっていた折、親族が多く住む地方に仕事で立ち寄った。

 

そこで近々イタリアに行くと話し、「何か土産に買ってきてほしいものはあるか?」と聞くと、最年少の従妹が、「トシオ兄ちゃん、私、フェラガモの財布がほしい」と言った。

 

トシオ小父さんはフェラガモが何かを知らなかった。

 

「財布?そんなんでいいのか。じゃあ買ってくる」とイタリアへ旅立った。

 

そしてフェラガモの直営店で財布を買おうとして、その金額に驚愕することとなる。

 

帰国後、約束通り従妹に土産を渡したトシオ小父さんは、

 

「いいか。その財布の外身より、中身の金額は必ず多くなるようにしておけよ」

 

と捨て台詞を吐いた。

 

ちなみに私はワインを所望した。

 

現地のスーパーで買ったというそのワインを一緒に飲みながら、「あいつにしてやられた…」と嘆くトシオ小父さんに、「いや、まあ、流石にそれはフェラガモを知らない小父さんが変だと思う…」と私も冷たかった。

 

なお、トシオ小父さんは私に、見た目が多少エレガントなエコバッグも買ってきてくれたのだが、使いにくいので捨ててしまった。

 

トシオ小父さん、ごめんなさい。

 

でも私は消え物でよかったんだよ。

 

その従妹が外身より中身を多くするように心がけているかは、定かではない。

トシオ小父さんの伝道。

私が中学生のとき、田中芳樹創竜伝』が、CLAMPの挿絵で文庫化された。

 

当時CLAMP魔法騎士レイアース』や『X』『聖伝 RG VEDA』を読んでいた私はわりとジャケ買いで手に取り、読んだのである。

 

それをトシオ小父さんに話したところ、

 

「『創竜伝』?それはいけない、『タイタニア』も『アルスラーン戦記』もダメだ。読むなよ。読むなら『銀英伝』にしなさい。あと『創竜伝』は新書版がオススメだ、挿絵は天野喜孝だぞ」

 

と、『銀英伝』を全巻貸してくれた。

 

田中芳樹の超絶なる遅筆を知るのはそのすぐ後である。

 

結局、トシオ小父さんの伝道に従い、私は『銀英伝』と『創竜伝』以外には手をつけなかった(例外:『薬師寺涼子の怪奇事件簿』。これも挿絵が垣野内成美だから、というジャケ買いに近い)。

 

2020年、「『創竜伝』の最終巻が出る」とTwitterで知った私は、トシオ小父さんに即LINEした。

 

これは、その実際のやりとりである。

 

 

このとき彼は既に認知症を発症していたはずなのであるが、あとから振り返ると、妙な文言が含まれていない最後の会話だった。

 

創竜伝』最終巻は、この3ヶ月後、2020年12月に刊行されている。

 

彼は読んだのだろうか。そして、どんな読後感をもったのだろうか。

たぶん、もう確かめる方法はない。

 

そしてトシオ小父さん、『タイタニア』や『アルスラーン戦記』、読んでもいいですか?

トシオ小父さんの語る幼い頃の私。

トシオ小父さんが、初対面の私の知人に、ほぼ必ずした話が、「えすぺろがレコードを聞いた話」である。

 

「こいつはさ」、とトシオ小父さんは始める。

 

「3歳くらいで、じいちゃんばあちゃんのところに1人で預けられてさ、寂しかろうと見に行ってみたら、俺を手招きして、童謡のレコード聞かせてくるのよ。

あー、子どもらしい、可愛いなぁと思ってたら、レコードを全曲最後まで聞いた後、『いっきょくめはなになに、にきょくめはなになに』って俺に向かってタイトルを列挙し出したの。

いやー、血は争えないわーって思ったね」

 

「血は争えない」とトシオ小父さんが言っているのは、私の母のことである。

 

私の母は旧帝大を出た秀才で、小父さんはコンプレックスがあるようだった。

 

「『あの』お母様の子だなー、さすがだなー、と思ったよね」

 

とトシオ小父さんは言っていたが、まあ、私も似たようなコンプレックスを母に対して抱くようになるのは、また後日の話である。

バナナを食べすぎた話。

トシオ小父さんは、小学生の頃に大引越しを経験した。

 

1960年代のことだ。

 

当時は移動がそんなに楽ではなく(小父さんたち一家も、在来線を乗り継ぎ乗り継ぎ、数日かけて移動したそうだ)、ご近所中が、「今生の別れ」とばかりに駅まで見送りにきた。

 

そしてこのパターンだと、皆、餞別を持ってくることになる。

 

時期だからか、それともそれが(比較的)高価だったからか、餞別は揃いも揃ってバナナ一房だった。

 

皆々様から頂戴したバナナを抱えてトシオ小父さん一家は移動した。

 

長い移動の中、小学生のトシオ小父さんはおやつをねだった。

 

父親は「バナナを食おう。いただきものだから」と言った。

 

バナナが餞別になる時代のこと、めったに食べたことがなかったトシオ小父さんは喜んで食べた。

 

次におやつをねだると、父親は「バナナが残っとる」と言った。

 

もうここでオチはわかると思うが、この長い旅の間中、トシオ小父さんはひたすらバナナを食べるハメになった。

 

当たり前だが、バナナは数日で傷む。

 

それでも「バナナが残っとる」のひと言で、トシオ小父さんは最初から最後までバナナを食べた。

 

結果、トシオ小父さんは二度とバナナが食べられなくなった。

 

後年、会社で同僚からパウンドケーキをお土産で振る舞われ、ひと口食べて、味わう前に反射的に吐き出してしまい、「これ、バナナ入ってない!?」と叫んだら正解だったそうだ。

(ちなみにそのあとトイレ行き)

 

本人は「俺はあのとき一生分バナナを食った」と言っていたが、残念ながら、バナナアレルギーを発症したのだと思われる。

 

※余談

トシオ小父さんも「嫌いだ」としか言わず、私も「バナナのアレルギー?ないでしょ」と思っていたが、第二子を産んだ後にバナナアレルギーの存在を知った。

 

介護施設に入るなら伝えておかないと…。